【深夜に読みたい】日本史上最悪のヒグマによる獣害~三毛別羆事件~

事件

これは、今から100年ほど前の1915年(大正4年)12月9日~14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(とままえぐんとままえむらろくせんさわ)周辺で発生した、 ヒグマによって死傷者12名(胎児含む)を出した、未曾有の大事件の全貌である。

※尚、本記事には凄惨な描写が含まれるため、苦手な方は、ご注意いただきたい。

事件初日

(ヒグマに襲われた開拓農家の復元地)

始まりの朝

当時ここの村には15戸の開拓者たちが生活していた。

12月9日、三毛別川上流にある、寄宿者含む4人が暮らす太田家にて、事件は発生したのである。

同日の午前、太田家の当主、太田三郎と、同家に寄宿していた長松要吉は、生業の伐採等のため、外へと出掛けていた。三郎の内縁の妻である阿部マユと、太田家に預けられていた少年の蓮見幹雄は小豆選別作業をしならがら、留守番をしていた。

太陽が最も高く登った頃、要吉が食事のために家へ戻ってくると、幹雄が土間の囲炉裏の傍にポツンと座っていた。

要吉「ただいまー、幹雄ー。あれ、寝てるのかー?山で良い物見つけたぞー!」

幹雄は自分を驚かすために狸寝入りをしているのだろう、と考えていた要吉が、大きな声で幹雄に話しかけていた。

幹雄の肩に手をかけたその時、要吉はあまりにも信じられない目の前の光景に、戦慄することとなった。

なんと、そこに無残な幹雄の姿があった。

幹雄の顔の側面には、大量の血が付着し、喉元が何者かによって剥ぎ取られていたのだ。

そして、側頭部には親指大の穴が開けられていたのである。

要吉は、恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、声が響く部屋の中には、幹雄の遺体と事件の痕跡だけが異臭とともに佇んでいるのであった。

現場の様子から、事件発生からあまり時間が経っていないようであった。

要吉は三郎と村人たちに助けを求めるため、家を飛び出し、下流へと走ったのである。

抵抗の痕跡

三郎と村人たちが現場についた時、この悲惨な状況に、ただ嘆くしかなかった。

ふと見回すと、村人たちは、窓を破り侵入し囲炉裏へと向かうヒグマの足跡に気づくことになる。

この時、初めて村人たちは、自分たちの置かれている危険な状況を把握した。

見つけた足跡から、ヒグマの仕業であると認識し、その先には、まだ火の消えていない薪がいくつか転がっている。

そして持つ部分が折れた血染めのまさかりがあったのだ。

部屋中を回るように残っていたヒグマの足跡は、部屋の隅に続いており、そこは鮮血が水たまりのようになっていたのである。

それは、燃える薪やまさかりを使い、深手を負いつつもヒグマから必死に逃げるマユが、抵抗虚しく捕まり、悲惨な最期を迎えたことを物語っていた。

そこからヒグマは、マユを引きずりながら、侵入経路に使った窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪がこびりついていたという。

村人たちには、もはや一刻の猶予もなかった。

その日のうちに、六線沢村の斉藤石五郎が使者役として、30km離れた苫前町の警察へ助けを求めるため出発した。

成人男性の平地での歩行速度がおよそ時速5kmであると言われている。

しかし真冬の北海道、斎藤石五郎は積雪状態の中10時間以上もかけて歩いたはずだ。

向かうのに半日以上、そして苫前町にて、助けと共に戻ってくるまでは数日はかかることを村人たちは覚悟していただろう。

捜索隊の奪還作戦

事件発生から翌日の朝、隣村にある三毛別の村長を交え、30人の捜索隊が結成された。

そして、ヒグマに奪われたマユの遺体を奪還するため、深い雪の積もる山の中へと捜索隊は足を進めた。

雪山イメージ

頼もしいことに、村人の中に銃器を持つものが5人もおり、持たないものはクワやカマなど手に持っていた。

昨日の足跡と血痕を追って150m程進むと、数十メートル先にヒグマの姿を発見することとなる。

その時、村人たちは自分たちの戦う相手が、未だかつて誰も見たことのない程の、巨大な怪物であること知るのである。

このヒグマの体長は約270cm、立ち上がると約350cmもの高さで、後に判明した体重が約380kgである。

一般的なヒグマの体長が約180cm、体重が約200kgであることを考えると、この場で村人たちが身の毛がよだつ思いをしたことは間違いないだろう。

ここでひるんではいけないと、村人たちは銃口をヒグマに向ける。

しかし5丁のうち発砲できたのは、たった1丁であり、その銃弾ですら的はずれな方向へと飛んでいったという。

これは、致し方ないことなのである。彼らの本業は農家であり、銃器の手入れや鍛錬などしているはずもないのだ。

この時、頼りにしていた銃器が役に立たなかった以上、村民にとってヒグマから自衛する手段は消滅したことに等しいのである。

捜索隊に襲い掛かってくるヒグマ。為す術のない村人たちは、その場でバラバラに逃げていく。

しかし、ヒグマは彼らを深く追うことはせず、逃げたため、捜索隊は事なきを得た。

ヒグマの執念

銀世界と真紅の鮮血

翌朝、改めて周囲を探した捜索隊は、変わり果てたマユの遺体を発見するに至る。

血に染まった雪の一角に、頭骨と頭髪の一部、ほとんど食い尽くされたひざ下の両足だけが転がっていたのである。

捜索隊は、この遺体を拾い上げ、太田家に持ち帰った。

この行動が後に、この事件をより悲惨なものにする引き金になるとはつゆ知らず。

血痕イメージ

再び襲来

その夜、太田家では、幹雄とマユの二人の通夜が執り行われていた。

多くの者は、ヒグマを恐れ、ごく少数での参列者となっていたようだ。

この通夜のしめやかな空気を、突如引き裂くように、あの黒い怪物は姿を表したのである。

そう、あのヒグマが再び太田家を襲ったのだ。

“午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。混乱の中、ある男はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。
この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。さらに300m程離れた中川孫一宅で食事をしていた50人ほどの男達が、物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、その頃にはヒグマはすでに姿を消していた。”

ヒグマはなぜ再来したのか?

このヒグマの性格が、悪魔のように鬼畜すぎるからだ!と思われる方もいるだろう。

しかし、これはヒグマの習性によるものだと考えられている。

捜索隊が見つけ持ち帰ったマユの遺体。

それはヒグマが雪をかぶせ、保存食にしていたものだったのだ。

ヒグマにとってマユの遺体は、自分のものであり、大切な食料である。

それらを奪われたことに怒り、取り戻しにやってきたのだ。

ヒグマの嗅覚は、犬の100倍と言われている。

その嗅覚を使えば、血の匂いを嗅ぎつけ、マユの遺体の在り処を見つけ出すことなど、赤子の手をひねるようなものだろう。

「腹破らんでくれ、喉食って殺してくれ 」

太田家を再び襲ったヒグマは、それだけでは飽き足らず、討伐隊を待つ者たちが集まる明景家へと向かっていた。

そこには、明景家の女子供 妻・ヤヨ、力蔵、勇次郎、ヒサノ、金蔵、梅吉の6人と、村長の指示の下、避難してきた斉藤家の女子供、妻・タケ、 巌、春義、そして護衛係の要吉、合計10人がいた。

他の護衛は、腹ごしらえとして外出しており、太田家にヒグマが再び襲われたとあって、明景家に大人の男は要吉だけが残っている状況になっていた。

太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分頃、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉は無い。その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。
ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた後、3人を手元に引きずり込み、ヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。
追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、 「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」 と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。

ヒグマに人間の言葉が通じるはずもない。

しかし、あまりにも無残である。ヒグマに食べられることだけでも想像を絶するというのに、胎内に子を宿している母の気持ちとしては救いようのない絶望のみが、心を支配していただろう。

ヒグマが明景家を襲っている最中、50名の討伐隊が到着した。

ヒグマの存在を確認した彼らは、松明などで焼き払い討ち取ろうとするいのだが、生存者の声が聞えることもあり断念。

結果、この時に討伐はできなかったのである。

のちの証言によると、現場には「ガリガリ、コリコリ」などの人間の骨が砕ける音が、周囲に聞えるほどに響いていたという。

中を見た男の報告として、こういったものが残されている。

飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には少し動いていたという。しかし一時間後には死亡した。力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。巌は肩や胸にかみつかれた傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。

その後、ヒグマ襲来の連絡は、北海道庁のもとにまで届き、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の菅警部に討伐隊の組織が指示された。

多くの協力を集め、ヒグマ捜索が行われるのだが、この時ヒグマは姿を表さなかった。

後にヒグマの習性を利用した待ち伏せ、つまり遺体をおとりに使う作戦を施行するが、ヒグマはその気配を察知し、近くまで来たが、すぐ森へと引き返し、失敗に終わったという。

事件発生から4日後

事態の収拾の兆しがないまま迎えた5日目。ついに陸軍の一隊が投入されることとなった。

この日もヒグマは勢い劣ることなく、避難後である村民のいない民家を次々と襲い、家畜や食物を食い荒らしていた。

更に寝具や服をズタズタにしており、特に女性が使ったものに、異様なほどの執着をみせていたという。

人肉の味、特に弱い立場にある女子供を捕食したことにより、これらの存在が美味であると学んでしまったのであろう。

ヒグマの最期

12月14日

この時になると、ヒグマはエサとなる女性が見当たらず激怒していたのか、むやみやたらに家に忍び込むなどの行動を見せ、警戒心は薄くなっていたという。

10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳)という熊撃ちがいた。鬼鹿村温根(現在の留萌郡小平町鬼鹿田代)に住む兵吉は、若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、天塩国でも評判が高いマタギだった。彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、だれもが悔しがった[3]。孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。
兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在には全く気づいていない。音をたてぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠(ほふ)られた姿だった。

北海道庁が動きだしてからの3日間で動員された討伐隊員は、のべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にもなるという。

ヒグマ一頭を討伐するものとは、思えないほどの数である。

しかし、人間をそれほどまでに脅かすほどの、獰猛さと狡猾さを、このヒグマは備えていたのだろう。

「サバサキの兄(あにい)」によって、仕留められたヒグマではあるが、彼がいなければ、もっと多くの被害者を出しただろう。

野生の動物、獣にとって我々は、時として、ただのエサにすぎないのである。

原因は我々に?

これほどまでに、このヒグマが我々に牙を剥く原因となった理由は、人類が居住区を開拓していく中で、野生動物と人間の活動範囲が重なった結果であると言及されている。

もしやこれは、人類が触れてはいけない自然を侵しはじめたことを意味するのかもしれない。

開拓は進み、人類は今やいたるところに住んでいる。

しかし地球上で見れば、たった26%、約四分の一のほどの大きさである。

人類には、火星や月への移住計画、地下開発、天空の住居、様々な計画が存在する。

このヒグマのように、人類を脅かす存在を、我々が自らの手で生み出す可能性は少なくないはずである。

あなたが愛してやまないペットや、身近にいる動物たちが、もし人肉の味を覚えてしまったら・・・。

我々が思うほど、人類は屈強ではないのかもしれない。

参照元:wikipediaGoogle MapsInstagram

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