【悲劇】19世紀最大の遭難!フランクリン遠征隊の末路、、

ミステリー

19世紀最大の遭難!北極航路遠征隊にいったい何が起こったのか!?

未踏の地への探検と聞くと、期待に胸躍る人もおおいのではないか。

航海
しかし、そこには大きな危険がつきまとうのも常。

今回紹介する、19世紀最大の遭難と言われる北極航路遠征隊(フランクリン遠征隊)の悲劇も、それを象徴する出来事だ。

アジアへの最短航路

ヨーロッパでは、1490年代よりアジアへの最短航路を探しはじめていた。その中心的存在がイングランドであった。

古地図
その当時考えられていたものに、北西航路がある。

北西航路とは、北アメリカ大陸の北側にあるカナダ北極諸島の間を抜けて太平洋と大西洋を結ぶ航路のことであり、ヨーロッパから北西へ延びる航路であることからその名がついた

その北西航路の探索も進み、約181,300㎢の未踏の地を残すだけとなった1845年、当時の海軍本部副大臣であるジョン・バロウが北西航路の完成をめざし、北極航路遠征隊を結集させるのである。

そして、その指揮官として指名されたのがジョン・フランクリンである。

「ブーツを食べた男」ジョン・フランクリン

ジョン・フランクリンは若くして海軍を志し、1790年に14歳で任官。数々の海戦を経験したのち、あのナポレオン戦争にも従事している。

1818年に、初めて北極圏に遠征し、海尉として一目置かれる存在となる。

だが、その後の探検で、隊員20名のうち9人を失う苦い経験をする。その状況は悲惨なもので、生存者は苔などで飢えをしのぎ、履いていた革のブーツを食べようと試みたほどであったという。そのことから、フランクリンは「ブーツを食べた男」と、呼ばれるようになる。

John Franklin 1845.JPG

しかしその後の探検で成果を上げたフランクリンは英雄として、1828年にはナイトの称号を授与されている。

英雄である彼が、北極航路遠征の指揮官として指名されたわけだが、実はフランクリンは指揮官の第一候補ではなかった。その大きな理由としあげられるのが、年齢だ。指名されたときフランクリンは、すでに59歳になっていた。

約束された成功

北極航路遠征隊、通称フランクリン遠征隊は、士官24人、乗組員110人、合計134人で構成され、1845年5月19日朝、イングランドのテムズ川河口グリーンハイスを出港したのである。

この遠征のために、数々の最新設備が用意された。

時速7.4㎞で航行可能な蒸気機関を備えた、エレバス号テラー号の2隻の船には、隊員のために、室内スチーム暖房にはじまり、1000冊以上の書籍を揃える図書室、3年間分の食料に相当する缶詰などの保存食も積まれていた。

さらに、海水を真水に蒸留する最新式の装置まで完備されていたのである。まさに準備は万端である。

突然の失踪

しかし、出発から2カ月ほどたった1845年7月、グリーンランドで入港して隊員5人を下船させ(残りの隊員129名)、故国への手紙を送り返したあと、フランクリン遠征隊は忽然とその姿を消したのである。

最新の設備と、十分とも思える物資を積んだ2隻の船は、その後150年以上見つかることはなかった。

フランクリン遠征隊の末路

いったいフランクリン遠征隊に何があったのか、エレバス号とテラー号はどこに行ったのか。

その後の調査でさまざまな事が分かってきたのだが、その内容があまりに凄惨すぎるのである。

謎の体調不良・・・そして精神崩壊

実は、最後に目撃された1845年7月以降も、フランクリン遠征隊は順調に航海を続けていた。ただし、隊員の中に体調不良を訴える者が増えていき、遂には死亡者がでてしまうのである。しかも、その原因がはっきりわからないのだ。

その後航海を続けるも、氷に行く手を阻まれて、遂に身動きが取れず越冬することになるのである。

しかし、船内は暖かく快適で、食料も十分ある。十分想定内であるはずだった。だが状況は悪化の一途をたどる。

体調不良の隊員が増えるにしたがい、次第に精神まで病んでいく隊員がでてきた。強靭な肉体と精神をもった男が次々と倒れていく姿に船内は混沌としていくのである。

指揮官の死・・・そしてだれもいなくなった

そんな中、1847年6月11日に、あろうことか指揮官であるジョン・フランクリンが死んでしまうのである。心臓の疾患が原因とされているが、詳細はハッキリしない。やはり年老いた体には北極遠征は酷だったのだろうか。

隊は指揮官を失い、さらに混乱していったにちがいない。

その後も氷が解けることはなく、結局1年7か月もの間、氷に閉じ込められた隊員たちは、船をすてる決断を下すのである。

しかし不思議なことに隊員たちは、船から出ていく際に食料である缶詰を一つも持って行かなかったのだ。

栄養を取るはずの食事が毒に!?

氷に閉じ込められていた場所が、陸まで数百キロあることを考えれば、これは、あり得ない話だ。なぜ隊員たちは、そのような選択をしたのだろうか。

3年分の食糧のために用意された缶詰は約8,000個。しかしそのほとんどが食べられる代物ではなかったのだ。

遠征のための缶詰が発注されたのが出発の3か月前。当時の技術では短期間に大量の缶詰を製造することができず、製造が雑になり、使用される鉛が内部の食糧に溶け込んでいたのである。

しかも、缶詰の請負業者が消毒していない食材や腐った肉を詰めたり、石やおがくずで水増しするなど、現代では考えられないようなものを納品していたのである。

さらに、最新式の海水を真水に蒸留する装置内部からも、鉛が溶け出していたと考えられている。

溶け込んだ鉛による鉛中毒によって、嘔吐や貧血、高血圧にはじまり、最終的には強い脱力感に襲われる隊員たち。

さらに醜悪な缶詰食材にボツリヌス菌が発生し、ボツリヌス毒素を含む食材を食べることによっておこるボツリヌス症になり、四肢に麻痺を引き起こし、場合によっては呼吸できずに死に至ったと推測される。

つまり、次々に仲間が死んでいくのを見て、隊員たちは缶詰が原因ではないかと悟ったのだ。だから缶詰をおいて船を後にしたのだ。

力尽きていく隊員

しかし、陸を目指した隊員たちも、結局生きて帰ってくることはなかった。

食料を持って行かなかったこと考えれば当然だが、他にも原因はある。それは装備である。

今回の遠征は、あくまで北西航路の完成にあったので、船上での装備しか持ち合わせていなかったのである。その装備のまま食料も持たずに極寒の地を行くなど、致命的である。

そして、フランクリン遠征隊129名は、全員死んでしまったのである。

では、隊員に捨てられた2隻の船はその後どうなったのだろう。

エレバス号とテラー号150年以上の時を経て発見される!

さまざまな人によって、フランクリン遠征隊の捜索は行われ、各地で隊員の足取りが発見された。しかし2隻の船、エレバス号とテラー号の行方は知れないままであった。

しかし、2014年にエレバス号が、そして2016年にテラー号が発見されたのである。姿を消してから150年以上が経っていた。

共に北極圏近くの海峡で発見された船体は、驚くことにほぼ無傷の状態だった。

要因は、北極圏近くの海水の温度が極端に低いことが考えられるが、今後調査が進めば、フランクリンが採取した標本などを見つけられるかもしれないとのこと。

北西航路は完成できなかった彼らだが、この悲劇以外に、後世に伝えるべき何かがあれば、少しは救われるのではなかろうか。

参照元:wikipedia[1][2]youtube

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まつやま

おいしいごはんを食べているときが、いちばんしあわせです。すきな食べものは酢飯。屋根の下より空の下にいるほうが落ち着く人(髪の毛に難あり)fromサウス大阪。

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