【壮絶】伝説の日本人ボディビルダー「マッスル北村」の生涯に迫る!もはや偉人レベル!

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伝説のボディビルダー

皆様は、飽食といわれる現代の日本で、事実上の飢えで亡くなったと噂される、伝説のボディービルダー、「マッスル北村」のことをご存知だろうか?

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写真だけを見ると、感想は「なんとも凄い肉体!」である。格闘漫画「グラップラー刃牙」に登場する、愚地克己のモデルにもなったほどである。彼は、不思議な学歴タレントとして、テレビでも活躍していた。

マッスル北村の伝説

家族と一緒にとる「普通の食事」以外に、卵を20-30個、牛乳を2-3リットル、さらに鯖の缶詰を3缶、加えてプロテインの粉末300gを毎日摂取した

筋肉のサイズアップに効果があるとして、鶏肉をミキサーにかけペースト状にしたものを大量に摂取した

その動画がこちら

にわかに信じがたい光景である。 筆者はロッキーに憧れ、卵白を飲んだことがあるのだが、これが全くの無味で、しかも喉元に来ると、大量の痰を飲み込んでいるような違和感が、全体に広がるのである。

それをこれほどの量を食べる、否、摂取するなんて、世にも奇妙な光景である。ここにエッセンスを加え、風味を和らげるのは、熟練者ならではの知恵であるといえよう。しかし、動画に見られるように、お世辞でも美味しいといえないものを勧めるほどになる、というのは狂気の沙汰であるといえる。

他にも

関東学生選手権を圧倒的実力で優勝

ボディビルに専念するため東大を中退

大会前の2日で85kgから98kgへ増量、そこから減量のため100kmマラソン、気絶することなく計120kmを走り抜き、1日で14kgの減量に成功

数々の伝説を生み出したマッスル北村。

彼の壮絶な肉体もさることながら、その彼が生きた人生も凄絶であったのである。

目をみはるほどの高学歴!

まずは、その驚きの経歴をご覧いただこう

1960年 10月6日生まれ
東京学芸大学付属小学校・中学校・高校 卒業
東京大学 理科Ⅱ類  中退
東京医科歯科大学 医学部 中退
1983年 ミスター関東学生大会 優勝
1984年 ミスター関東 優勝
1985年 ミスター東京 優勝
1985年 ミスター全日本実業団 優勝
1985年 ミスターアジア ライトヘビークラス 優勝
1986年 ミスターパシフィック 優勝
1986年 ミスターオールジャパンチャンピオンシップス 優勝
1990年 WABBA世界選手権 世界4位入賞
1999年 WABBA太平洋世界選手権 総合優勝
1999年 NPCトーナメント・オブ・チャンピオンズ ヘビー級3位入賞

小中高ともに国立の学校へ通い、大学入試では、現役で防衛医科大学校と、早稲田大学理工学部に合格したが、入学せず二浪し、東京大学に入学したという。まさにエリート中のエリートと呼べる経歴である。ボディービルダーとしての経歴も、輝かしいことがお分かりになるだろう。

旺盛な好奇心、研究に明け暮れる日々

修理しまくる幼少時代

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マッスル北村 (本名、北村克己)は1960年10月6日、東京都に生まれる。父は彫刻家、後に妹が生まれ、4人家族の長男として育っていくのである。この頃は、冒頭の写真のイメージとは異なり、おとなしい子どもであったようだ。

小学校時、マッスル北村は「ラジオ組み立てキット」に夢中になり、ラジオにとどまらず電気に興味を持ち、夢中で研究し始めたという。家にある壊れたラジオを分解しては、修理していた。それだけでは飽き足らずに、壊れたテレビを電気屋に譲ってもらい、それをまた分解し、壊れた原因を探り、修理していたという。

この時から、マッスル北村は、熱中すると、とことん打ち込む、という姿勢がひしひしと感じられる。目の前にある興味、それに対して、一辺倒に取り組む。この時から、マッスル北村は「がむしゃら」という言葉が、ぴったりの人間になっていった。

「走るんだったら倒れるまで走る」レールからはみ出し、己の道へ

中学2年生。当時、マッスル北村は、自転車に熱中していたのだ。

夏休みが終わる2日前、8月30日深夜2時。

マッスル北村は、夏休みの課題として、自転車を題材にした研究をしており、その最後を飾る実験として、自宅から200キロほどの距離にある奥多摩まで自転車で行くことを計画したのである。車で走るとしても相当な時間を要する距離なのだが、それを自転車で行くというのだから恐ろしい計画である。

そしてここは、マッスル北村、やはり普通の長距離サイクリングではなかった。アップダウンの激しい道を、ほとんど飲まず食わずの状態で、走り続けたのだ。しかし、無謀なこの計画は、完遂されること無く終わったのである。(課題は完成した模様)

およそ16時間に渡る走行の末、牛乳を口にした。しかし自宅から持ってきたその牛乳は、数日経ちゼラチン状に固まっていたのだ。その後の道中で気を失い、病院に運ばれたことは想像に難しくない。マッスル北村が次に目覚めたのは、奥多摩病院の8号室だった。

これまで親に心配など一つもかけたことがなく、勉強熱心で悪いこともせず、学校では学級委員はもちろんのこと生徒会委員にまでなるぐらいの優等生お坊ちゃまが、自分の夢にはしり、親の夢や希望を破り、心配ばかりかけるようになってしまったのです。この日から私は兄と両親の板ばさみになり、両方の間を行ったり来たりする立場に立たされるようになったのです。兄にとって完全燃焼人生の第一歩とも言える記念すべき日かもしれませんが、両親にとって大変な日々の始まりでもありました。(思い出ぽろぽろ)

これは、妹である善美さんの手記から引用している。

きっと本人からすれば、完璧な予定が組まれていたのであろう。思い立った計画に、ワクワクしすぎたのか、大切な資本である自分の体を度外視し、配慮が足りていないような気がする。この見落としが後に、大きな問題になることは、この時誰も知る由がなかったのであろう。

「生きるとは何か?」自問自答する高校時代

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高校時代、相も変わらず、多くのことに感心を持っていた。

学校から帰宅すると、自己鍛錬と称し、トレーニングに明け暮れて、夜になると、宮本武蔵や大山倍達、などの偉人たちの本を始め、物理学、哲学、宗教、多岐にわたり読み漁り、「自分が何者であるか」を、探求していた。

ボクには時間が無い

卒業へと近づいた、マッスル北村は、この言葉が口癖になっていたようだ。

一見平穏だった浪人時代

今思い返せば、兄の39年間の人生の中で親が兄に対して心配せず、将来を夢見られたのは小・中学校時代と唯一この浪人時代ではなかったではないでしょうか。親も兄が勉強をしている姿をみては、これで兄もまともな人生(!?)を送ってくれるのではないかと夢を描いていたようです。(思い出ぽろぽろ)

冒頭で少し触れたのだが、マッスル北村は 現役で防衛医科大学校と、早稲田大学理工学部に合格しているのである。がしかし、これらの大学には通わず、彼は、浪人の道を選んだのである。

考察するに、彼が目標としたのは、東京大学であり、合格した二つの大学は、自らの力量を測るための受験であったのではないだろうか。合格へと勉学に励む、マッスル北村、それを見守る両親。この時間は、お互い同じ方向を見ていた時期であったといえる。

しかし、マッスル北村は熱中、いや没頭できるものを求めていたはずである。「生きるということは何か」を探求した上の、純粋なる刹那主義。東京大学を合格したマッスル北村にとって、東京大学は既に、面白味のないものになってしまっていたのである。

ボディービルとの出会い

東京大学入学後、目標を失い、抜け殻状態であった。この時、マッスル北村が出会ったのがボディービルである。

ボディービルを始める前に出会った、 東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部の先輩に、勧められるがまま、大会に出場。そこで自分と周りとの図体の違いに恥じらいを感じる。そして、それをも通り越し、怒りまで覚えるほど悔しい思いをしたのだという。彼はそれから、魂を吹き込まれたが如く、この道にのめり込んでいくのである。

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それからというもの、ボディビルに対し、常軌を逸したほど没頭し、 大学の授業には全く出席せず、果ては東京大学を中退するに至っている。
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熱い魂を呼び戻したマッスル北村は、前例の通り、全力で走り出すのである。あの夏休み、後先考えずに、計画を遂行した日のように、彼の足は再び、彼の道を走り出したのである。

一念発起で、一発合格。でも中退

そんな中、「自分はどうあるべきか。人の役に立ちたい」と、またもや猛勉強を開始。そして東京医科歯科大医学部に合格、入学するも、「ボディビルを極め、ボクはボディビルを通じて万人を勇気づける心の医者になりたい」、この志に行き着き、ボディビル一本に集中して取り組む為に中退。

「入学式で親と写真を撮ったんだけど、これ以降、父の笑った顔を見たことがない」と本人も語っており、父親との関係は衝突の連続であったようだ。

とまらないオーバートレーニング

それからというもの、ありえない程の、たゆまない努力をするマッスル北村は 、1986年7月20日 「ジャパン チャンピオンシップス」において、日本人最高のバルクとして謳われた石井直方を破り、優勝。ボディビルダーの憧れである「ミスターユニバース」の切符を手にする。

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しかし、筋肉増強剤であるナンドロロン使用により、失格とされてしまう。その時のトラブルが元で、コンテストビルダーとしての道を、閉ざされる結果になったのである。これに関し、後に著書にて「はめられた」と語っている。

事実のほどは、定かではないのだが、たとえもしドーピングをしていたとしても、筆者は彼を美しいと賞賛したい。一点へと曇りなく突き進む姿は、まさに芸術といっても、過言ではないだろう。

「僕はそんなカロリーすら摂取したくない」

しかし熱量の冷めないマッスル北村は、今までと変わらず、常人ではありえないトレーニングに、日々を費やすのである。急激な減量により、身体中の電解質が不足したり、低血糖症のために倒れ、何度も救急車で病院に搬送されることになる。

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2000年8月3日、ボディビルの大会に参加するべく、脂肪を落とすため、20kgの急な減量を行った結果、異常な低血糖状態となり、急性心不全を引き起こして亡くなることとなった。享年39。死亡時の体脂肪率は3%を下回っていたと噂されている。これが亡くなった原因が事実上の飢え、だといわれる所以である。

亡くなる数日前にも、倒れて救急車で運ばれており、この時は、処置が間に合い助かっていた。

この時、身を心配した妹が「めまいがしたらアメを舐めて。アメでいいから」と懇願するも、「僕はそんなカロリーすら摂取したくない」と断る徹底ぶりであったという。

『物事には全て理由がある』

幼い頃から、興味を抱いたものには片っ端から、研究し、道理を探り、とことん突き詰め、目標を達成してきたマッスル北村。

物事には全て理由がある

この探究心こそが、彼の生き急ぐ足に、安息を与えなかった理由なのではないだろうか。

『自分の限界を見てみたい』

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善美さんは語る。

昔、「北村(克己)さんは、才能と天性に恵まれていて悩みが無くていいですよね。」と兄のことで電話をいただいたことがあったのですが、そのとき思わず「まさか、兄は悩んでばかりですよ!」と即答したほどです。悩んでお酒に走ったこともありました。飲む量も常人のレベルではないのです。お酒が大好きということもあるのですが、一度あけた蓋は底を尽くまで飲み干すのです。日本酒でも焼酎でもワインでもお酒の種類にかかわらず、2Lでも3Lでも。2本でも3本でも。飲んで現実逃避したかったのか、考えをまとめたかったのか、悩みを解決する道を探していたのかそれはわかりませんが、家族も友人も愛犬もそんな兄を心から心配しました。愛犬(チビ)も兄にお灸を据えるため兄のトレーニングに使う大切な手に深く噛み付いたことも数回ありました。(思い出ぽろぽろ)

マッスル北村は、言わずもがな茨の道を歩んでいたのだ。厳しい道程に、立ちはだかる壁、試行錯誤し、乗り越え、また進み出す。

なぜ、こういったことができたのだろうか。善美さんの言葉にもあるのだが、きっとそれは、彼が自分の道、夢というものに、出会ったからである。

夢を目指す者と、周囲の人達。お互いが、いくら思い合っても、幾分、折り合いがつかない部分があるだろう。夢を目指す者は、ひたすら突き進むのだ、いかに問題があろうと、それが己の道であると知っている。しかし周囲の人達はそうではない。

「別にすごい人間にならなくていい、平凡な幸せを築いて欲しい」

親という立場になれば、余計にこう思わざるをえない。マッスル北村にとって、その思いは痛いほど感じるであろう。そして後髪を引くような優しい思いを、振り切る痛み、問題に直面したときの痛み、両方がのしかかり生まれる悩み。これは体験する本人でないと、計り知れないものである。

それでも、なお信条を貫き、限界に挑戦し続けるということは、常人では耐え難く、険しい人生であったことは、言うまでもない。

限界の最中

マッスル北村の言葉をひとつ紹介したい。

他人を納得させる記録や結果よりも、たとえ自己満足と笑われようが自分で自分に心から「よくやった」とひとこと言える闘いこそ、まことの勝利であり人間としての自信と誇りを得て人生で最も大切な優しさや思いやりを身にまとう瞬間だと思う

この言葉は、彼の人間性と生き様をまじまじと表している。限界に挑む中、彼は、何が大切であるかを悟っていたのだろう。

燃え尽きるまで

マッスル北村は、真っ直ぐすぎる生き方を通し、若くして亡くなった訳であるが、彼の周囲の人間は、わかっていたであろう。それが彼の、「マッスル北村」という人間の本当の幸せであったということを。

死後、十数年経った今でも、マッスル北村は人々を魅了してやまない。死去から12年後、2012年8月31日、書籍『マッスル北村 伝説のバルクアップトレーニング』が発売され、2015年9月23日放送の『この話、凄くないですか?』(フジテレビ)では、秋山竜次(ロバート)により、生前のエピソードなどが語られた。

マッスル北村が、それを支えた周囲の人達が、共に紡ぎ出した、儚くも美しい物語は、私達の人生に対し、価値を問い、”生きるとは何か”を訴えかけるのである。

マッスル北村の願いは叶っている。なぜなら彼は、その人生で、こうして万人を勇気づける医者になれたのだから。

これほどまでに、私達が、実直に、格好良く生きることは難しい。しかし、彼を偲び、人生をなぞるように思い馳せ、私達の送る人生の糧にしていくことは難しくないだろう。

許諾元:北村善美
参照元:マッスル企画wikipedia、YouTube[1][2]

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イギ-くん

炭水化物が苦手です。映画と音楽と牛乳と紅茶とetc...が心の支えです。

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