映像は老人ホームから始まる
続きは、こちらの動画をご覧ください。
Adidas – Break Free
公式の映像じゃない?!
実はこれ、公式に出されたものではなく、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルクにある映像大学の学生Eugen Merher氏による、自主で制作されたものなのだ。なんとこの映像はYouTubeに公開されてから3週間程度1030万PVを超えるなど、驚異的な広がりを見せている。adidasが公式で取り上げられる様子は、今のところなさそうなのだが、この動画によってadidas社の良い宣伝となったのはいうまでもないだろう。こういった自主制作CMは、時間が短く、SNS等で拡散されやすいこともあり、近年広がりを見せている。
新しい脱出劇
1分40秒と短い動画なのだが、クオリティはさながら映画といっても過言ではないだろう。まるで「老人ホーム版プリズンブレイク」いや、「ショーシャンクスの空に」に匹敵するのではないか?特に、高齢化社会が進む日本人にとって、この古くも新しく打ち出されたテーマは共感しうるものであるといえる。
代わり映えのしない日々、同じことが繰り返され、言葉にできない不満や退屈が募り憤る。抜け出したくても抜け出せない環境。”脱出”といえば牢獄と連想しがちだが、この老人ホームから出ることを、”脱出”と表現することはあながち間違いではないはずである。
案外、自分を縛り付けるものというのは身近に存在するのかもしれない。そして見逃しがちなのかもしれない。日々の忙しさや、失敗への恐れ、自信がない、等といった言い訳を、自らに納得させ、それを真実として、捉えてしまっているのではないのか。
時間が経つにつれ、昔のことは、思い出となっていき、ただ眺める、時には慰めとして、浸っているのではないのだろうか。テレビに水をやる男性の描写は、そう感じざるを得ないのである。以前は暖かったものも、熱を加えないままでは、ぬるくなっていく。そこに浸かりすぎた時、私たちは、少し風邪をひいているのだ。そして傷ではないそこに、塗りつける薬などは、ないであろう。
きっかけがあれば
だが、光に向かって進むことはできる。主人公はスニーカーに、光を見出したのだ。代わり映えのしない日々に、変化を自らでもたらしたのである。そして、その光に支えられた周りの人々が、彼を支え、お互いが光り輝き合う。この施設の職員さんたちですら、主人公の脱出を心待ちにしていたのではないだろうかと想像してしまう。
語弊を恐れず言うと、「私たちは、なんでもすることができる」、できないと決めつけているのは自分なのだ。年齢や法律、資金などが自らを制約しているとは、考えてはいけない。それは自分が進む道に、登場した単なる障害でしかないのである。なにひとつ制限がない状態、ただそれが本当に良いことなのだろうか?
主人公は、老人ホームの外へと逃げ出し”Break Free”というエンディングになる訳だが、この物語は終わっても主人公の人生は続くだろう。自分の向く方向、すなわち前へ、ただ一心に何度失敗しても、挑戦し続ける。筆者にとって、この映像の、その姿が、目に焼き付いて離れないのである。
私たちは常に進んでいる、「諦めた」のではなく、ただ単に「忘れた」だけなのだ。この主人公がスニーカーを見つけたように、どこかに置いてきてしまっただけである。年齢や場所などは関係ない、自らが進みだした時がスタートなのだ。そう言われている気がしてならないのはきっと筆者だけではないだろう。